知覧の翌日は、西郷隆盛公最期の地、島津家ゆかりの地を周りました。
知覧の翌日は、西郷隆盛公最期の地、島津家ゆかりの地を周りました。桜島を借景とした島津斉彬公も歩いたであろう庭園を歩き、桐野利秋や篠原国幹が練兵に励んだであろう私学校跡を眺め、隆盛公が別府晋助に「晋どん、もうここらでよか」と言ったとされる場所を訪れ、1人勝手に維新ロマンに想像の翼を羽ばたかせておりました(^^)
熊本城、田原坂は、熊本店出店の際に訪れさせて頂いていたので、次は城山にと、盛和塾生としても強く思っておりました。まだ政府にいる時から、「今回の維新は血が流れな過ぎた」と、隆盛公が口にしていたという話は有名です。専門家が、西南戦争の戦略・戦術を見ると、「隆盛公は本気で勝ちには行っていなかったのでは」と思われる点が多々出て来るそうです。征韓論についても、西南戦争にしても、時代に取り残された武士達に、隆盛公は死に場所を作ってやりたいと考えてのことなのではと私は思っています・・・。
そんなことをツラツラと思いながら、若き日の隆盛公が、それを眺めつつ天下への志を逞しくしたであろう桜島を、この目に焼き付けて参りました。隆盛公が城山で散った歳まで、私もあと3年。改めて、自分に下された天命は何なのかを、深く考えさせられた鹿児島旅行となりました(^^)