父が他界しました。
父が他界しました。享年79歳。カテーテル手術失敗による事故死でした。
あまりに突然でしたので、残された方は動揺が大きいですが、「この歳まで来たら、後はピンピンコロリだ」とか言っていた本人としては、満足だったのではと思っています。
本当に「カッコ良い」、私が憧れ続けた男が父でした。
何をやらせても、お父さんとしてはトップクラス。高校まで陸上部だった父は、運動会で保護者として走れば、いつも1位。大学時代は体育会スキー部でしたので、ゲレンデを華麗に滑る姿は、周囲から注目の的。趣味のヘラブナ釣りでも、周囲が釣れていない中、父だけはバンバン釣って見せてくれました。
そして一橋大学経済学部卒だった父は、何を質問しても、本当にロジカルに、素晴らしい例えを交えて、即答してくれました。自然界の疑問について、歴史について、学校の算数の問題について等、何を聞いても明確に答えてくれるので、父に分からないことは無いのだと、私は思っておりました。
そして、厳しくも、愛情深い父でした。
怒らせると恐ろしく、殴る蹴るは当たり前、部屋に長時間閉じ込められて折檻されたことも一度や二度ではありません。家に遊びに来て、怒った父を見て、2度と遊びに来なくなった友人が居たほどでした。ただ、今振り返ってみると、父が怒る時は分かり易く、人として、リーダーとして、やってはいけない一線を越えた時だったと分かります。
一方、それ以外のことは、どんなに危ないことをしても、たとえ職員室に呼び出されたとしても、「やりたいことはやれ!」と、笑っていてくれる父でした。我々兄弟の主体性と、自由な発想力を、育んでくれたと思っています。
弟が飲酒で高校を停学になり、若手の先生が家に注意しに来た時、逆に父に論破され、父から「教育とは」という長時間の説教を受けて、「ありがとうございます」と言って帰って行ったのを思い出します。
こんな教育を受けた我ら3兄弟は、全員が都立西高卒。当時、我が学区ではトップの都立高校でした。そんな西高の校長室に、3兄弟が全員、理由は違えど、母親を謝罪に呼び出しています。3男のときに母が校長に謝罪に行ったら、「また、いらっしゃいましたね。お疲れ様です」と、労をねぎらわれたと母は笑っていました。
そこから、私と三男が父と同じ一橋大学に入り、父と同じ体育会スキー部に入りました。兄弟でポイントゲッターとして、部をインカレ3部から2部に昇格させる原動力にもなりました。OB会の事務局長をやっていた父に、あの時だけは手放しで褒めて貰えました。
次男は北海道大学農学部水産学科卒。なぜ急に北大とか言い出したのか聞くと、「お兄ちゃん、日本には、本格的なフライフィッシングが出来る川は1つしか無いんだ。釧路川だよ」との回答。父の釣り好きの影響から、フライフィッシングが趣味となっていた次男は、釧路川でフライをやる為に北大の最難関の学部の1つに行きました。しかも水産学科。「あいつは徹底している」と父が笑っていたのを思い出します。
この世代の父親で、教育者として、最高に近い成果を出した1人では無いかと思っています。
経営者としても、祖父から引き継いだ会社を、中堅企業と言えるレベルに育て上げたのが父でした。そして、バブル崩壊では、売上の半分を占める百貨店そごうの倒産に直面しながら、連鎖倒産を避け、私にバトンを繋いでくれました。あの経営者としての、周囲を巻き込むプレゼン力、何としても従業員の雇用は守るんだとの執念は、今の私でも足元にも及ばないと思っています。
そんな父の大きな期待に応えられる男に、まだまだ私はなれていないと感じています。あの世で再会した時、「展隆、よくやったな」と、父に言って貰えるよう、これから更に更に精進するつもりです。皆様のご指導、ご鞭撻を、宜しくお願い致します。
下の写真の向かって右側が我ら3兄弟。左側は母方の従兄弟2人。母親姉妹が仲が良かったので、この5人はいつも一緒で、兄弟のように育ちました。
従兄弟の1人も、ラグビー部でしたが、一橋大学経済学部卒。父の影響力の大きさを感じます。