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日本サッカー協会創立100周年!

投稿日
最終更新日
この記事の内容は、
2021年9月10日当時のものです。
公開から3年以上経過しています。
(1195日)

 

 

 

今日は日本サッカー協会創立100周年の記念日だそうです。

1921年9月10日に大日本蹴球協会として設立されて、今日でちょうど100年!

 

 

 

 

 

その間、日本のフットボール界は色々な事がありました。

わたくしスーツ番長は1976年、静岡学園高1年の時にサッカー部が選手権に初出場で準優勝を果たして以降、どっぷりと「フットボール沼」にハマっていった訳ですが、当時の日本フットボール界は人気ない、弱いの2重苦で、メディアに採り上げられる事も少なく、フットボール好きというだけで変人扱い(笑)されていたものでした。

 

上にリンクを貼っておきましたが、川淵三郎初代Jリーグチェアマンの談話の中で、1980年12月に急に日本代表監督に就任(前任の渡辺監督が病気で倒れた為)し、直後のスペインW杯予選を若手中心で臨んだ(戸塚とか都並とか木村和司とか金田とかがいた記憶があります)とありますが、今では信じられないのですが、当時のサッカー協会の優先順位はオリンピック第一で、W杯は二番手という位置付けでした。

要は、W杯はプロの世界選手権だけど、日本はアマチュアなので、まずオリンピックを目指すのが現実的という考え方です。

 

その価値観が変わり出したのが、1985年10月に国立競技場で行われたメキシコW杯アジア最終予選決勝の日本vs韓国の試合でした。

決勝まで快進撃で勝ち上がってきた日本代表でしたが、さすがに当時の東アジア最強の韓国には歯が立ちませんでした。

後に伝説になった木村和司のFKで追いすがる日本を2-1で振り切った韓国は、第2戦のソウルでの試合も1-0で勝って、アジア代表で翌年のメキシコW杯本戦に進出し、マラドーナがいて同大会の優勝国アルゼンチンに1-3、前回大会覇者イタリアに2-3と善戦。

最終戦もブルガリアに2-2で引き分けて、勝ち点1を記録。

 

日本を僅差でかわしてW杯に出場した韓国が世界の強国相手に善戦したのを観て、初めて日本の世界での立ち位置を意識するきっかけを得たのと同時に、当時既にプロ中心で決戦に臨んだ韓国に対し、全員アマチュアで撃沈した(僅差とは言え、両国には歴然とした差があった!)日本が今後採るべき方向を示した出来事でした。

 

ここから、遅まきながら日本もプロフットボールリーグ立ち上げに動き出したのでした。

 

そして、それから7年半後の1993年5月、遂にプロフットボールリーグJリーグがスタート!

そして、その年の10月のアメリカW杯アジア最終予選、オフトJAPANが最後のイラク戦で、手に仕掛けたW杯初出場の切符を逃した(ドーハの悲劇)のを経て、4年後にジョホールバルでイランを延長戦で倒し、遂にW杯初出場を果たし、日本代表人気を不動のものにしたのでした。

 

以降も、紆余曲折がありましたが、日本フットボール界は着実に実力を上げていき、国内で絶大な人気スポーツに成長しました。

 

1976年に私がフットボールジャンキーの仲間入りを果たした頃は、日本サッカー協会は他のスポーツ競技団体と一緒に岸記念体育会館を間借りしていましたが、いつの間にか2003年に東京都本郷に三洋電気が所有していたビルを買い上げて、日本サッカー協会ビル(通称JFAハウス)として移転した時は驚きと同時に感慨深い思いを抱きました。

1978年のアルゼンチンW杯を観た私は、「自分が死ぬまでに一度は日本代表がW杯に出場する姿を見たい!」と心から思いましたが、そんな日本代表も今やW杯に6大会連続出場を果たし、いつの間にかW杯に出るのが当たり前、本大会でベスト8に勝ち進むのが目標になったのですから、隔世の感があります。

 

良い事も、辛い事もたくさんあった100年間が過ぎ、次の100年、日本フットボール界はどこに向かって突き進んでいくのか?

 

 

まずはその前に、来年のW杯の出場権を勝ち取ってほしいですけどね!

 

 

100年後の日本は世界のフットボール界の中心で輝いている事を祈りつつ。